どうも釣り好き野良犬です。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか?
こちら大分県は、もう梅が咲き出しており春を迎えた感じがします。
さて、今回は2020年3月18日(木) 19時00分~19時56分の放送の【衝撃のアノ人に会ってみた!亀梨和也&石川遼、20歳の再会SP】で紹介される、10年前突然この世を去った元読売巨人軍の木村拓哉さんの息子、木村恒希さんが紹介され、木村親子について調べてみましたので書いていきたいと思います。
最後までお付き合いいただければと思います!
父・プロ野球選手の木村拓哉さんwiki的プロフィール
本名:木村拓哉
出身地:宮崎県
生年月日:1972年4月15日
命日:2010年4月7日(37歳没)
身長:173 cm
体重:75 kg
選手歴:日本ハムファイターズ (1991 – 1994)、広島東洋カープ (1995 – 2006)、読売ジャイアンツ (2006 – 2009)
経歴
日ハム時代
捕手として日本ハムファイターズに入団。しかし捕手として出場機会に恵まれなかったが、俊足と強肩を評価され外野手に転向。
広島カープ時代
広島カープにトレードで入団。内野手に転向後、代打の切り札としても活躍。
1999年、一時期はキャッチャーに再転向の案が浮上し、公式戦で4試合キャッチャーとして出場。この頃よりユーティリティープレイヤーとなり、この年だけで投手・一塁手以外の全ポジションを守っている。
2004年にはアテネオリンピック野球代表として、日本代表の銅メダル獲得に貢献。
当時、五輪代表監督だった長嶋茂雄監督から、「率先して裏方の仕事を手伝い、銅メダルに貢献してくれた」と称えられた。
巨人時代
2006年、出場機会を求めてトレードで巨人へ移籍。移籍後まもなくソフトバンクホークス戦で一軍登録され、サードとセンターを守り、いきなりの活躍を見せた。2007年には正捕手の阿部慎之助が欠場や途中交代した際に備えて、ブルペンで捕手としての準備もしていた。
2009年9月4日のヤクルト戦で、先発捕手は鶴岡一成で正捕手の阿部慎之助は一塁手として出場していた。阿部は7回に途中交代、鶴岡も8回に木村拓哉が代打で起用され、9回より唯一捕手の控えとして残っていた加藤健が出場。木村拓哉は二塁手として守備についていた。
しかし同点のまま延長戦へ突入し、11回裏の打席で加藤健はヤクルトの高木啓充投手から頭部に死球を受けて退場。12回表の守備につく捕手がいないという緊急事態になり、木村拓哉が出場することになる。当時の原辰徳監督はこの時、木村を探したが、すでに木村はブルペンへ行き捕手の練習をしていたという。
この回に四球やヒットを打たれるも0点に押さえ、木村がベンチに戻ってくる際には原監督が自らベンチを飛び出し、何度も肩を叩き活躍を讃えた。
突然の死
翌年の2010年4月2日、マツダスタジアムでの試合前のシートノック中に突然倒れる。救急隊のAEDの蘇生を受けた後、病院に搬送されくも膜下出血と診断される。意識不明の重体から意識が回復されず、4月7日3時22分に入院先の病院で静かに息を引き取った。(享年37歳)。
息子・木村恒希さんwiki的プロフィール
本名:木村恒希
出身地:宮崎県
年齢:20歳
出身高校:廿日市高校
現在は広島県内の大学に在学中で建築関係を学びながら、プロ野球選手の夢を持っているそうです。
木村コーチ追悼試合での始球式
父親の死の翌年2010年4月24日、東京ドームでの巨人vs広島戦での木村コーチ追悼試合で、当時10歳だった長男の恒希さんが始球式をされました。
【感想】
木村拓哉さんがキャッチャーをしたヤクルト戦はとてもワクワクする試合でした。
ピッチャー以外の全ポジションをこなせる選手はそんなにいませんし、不慣れなポジションにつくであろう時に自ら準備するのもプロ意識が高い証拠ですね。
まとめ
日ハム、広島カープ、巨人で活躍されましたが、突然の死を迎えてしまったのが本当に残念でしたが、ご長男の恒希さんの今後の活躍に期待しています。できればプロ野球で見てみたいなぁと思います。
そして球場全体が敵味方関係なく恒希さんの始球式を見守っている、とても感動的なものです。何度見ても胸が熱くなりますね!
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